昭和42年11月11日 夜の御理解
今日午後から久し振りにお芝居があるというので、テレビを見せて頂いたけれども、水谷八重子演じる所の滝の白糸があっとりました新派です。まあお芝居としてはその立派な芝居ですね、和泉京香原作ですから。所が見ておって最後までまあ見せて貰ったんですけれども、救いがないと思ったですね。自分の好きな男の為に貢いで学費を作ると、それこそ身を削る様にして送った。
その男に送る最後の金を調達して、それを取られた。それであの人殺めたという筋なんですけれども。最後に死刑になる訳ですね。白糸それを裁くのが学費を貢いだ、村星欣也という裁判官ですかね、検事になっておりますね。それでそのもう死刑になります。監獄の中で人の名演ずるその番頭ですかね、その劇団なら劇団の世話人格の役を務めておりましたが、まあいよいよ死刑のそれの迫ったある日。
監獄を飛び出てですね、その白糸に喜びなさいこの監獄の中をもう走り回って喜べというて、そのある事を言うて来とる訳です。というのは村星欣也がその前日自殺をしたというですね。ですからもう晴れてあなたのお前のお前のその、相手の男も死んだと。だからあの世でその晴れて夫婦になれるんだと。と言うてその第三者からは、それがその救いに見えたのですけれども。
本人白糸はそれをそのもうそう言う事になったら、もう死ぬる事すらがもう出来なくなったというて、嘆く所がありますですね。何故ってもう自分はもうそれこそもうほんとに坦々とした気持ちで死んでいける、もう度胸も気持も出来ておった。そしてあの世からその、好きな男の将来までもです、見守らせて頂くと言う事が一つの楽しみであった。それにその男が死んだというのであるから。
もう自分は死ぬる楽しみが無くなったという訳なんです。とうとう発狂して自害をして果てるというお芝居ですけれども。もうほんとにその芝居としては、中々そのラストシーンも素晴らしかったけれどもですね、けれどもその見ておって聞いておって、その全然救いがない。それこそもう同じ自害を致しますですね。そのほんとに満足して死んでいったと言った様な、その最後の場面が多いかったり。
又はそのハッピーエンドで終わると言った様なのが筋なんですけれども、ハッピーエンドがどうと言う事じゃないけれどもです。例え死んでもそこに救いが、なからなければいけないと。死んで行くけれどもそれはほんとにその、あの世からこの世に残っておる恋しい人、見守れると云う事に楽しみを掛けてその処刑される。もうその事が楽しい。もう実にたんたんとした気持で、その死刑の日を待っっておった白糸がですね。
相手の男が死んだと言う事を聞いて落胆し、発狂すると言う様なその場面が最後で御座いましたがね。それを見せて頂いておって救いがないです。私は思うのですけれども、この世の中には救いのない生涯で終わって行く人。ほんとに一生を唯よう働いたなとか、それこそ飲んで食うてちょいと言う事でお終いになって行く人。じゃあそれを信心させて頂いておってもでしす救いのない信心。
もうこんなに詰らん話はないのですよね。どうでしょうか皆さんほんとに信心が救いになっておるのでしょうか。唯金光様のご信心しておれば、困った時にお願いが出来るお取次ぎが頂けれる。何とはなしにあのお願いをする。おかげを頂いたり頂かなかったり。けれども矢張りわらをも掴む様な言わば、気持でお取次ぎを頂いて信心の言わば続けけられておるという、だけであってはです私は救いのない信心だと思うですねぇ。
助かってない。今日ひろこ先生が山口の教会の御大祭で、今日から熊本まで帰って山口まで行くと言うて帰っております。皆さんもご承知の様に中々、一つの信心のセンスを持っておるというか、もうほんとに典型的なお道の教師タイプに、もう生まれながらにして出来ておるような感じの人ですけれども。時々その寂しくなる。時々言わばまあホームシックとでも言うかもしれません。まだ若いですから。
又はここの修行がきつい場合も御座いましょう。それを見ておってですね、末永さんが、もう時々ひろこ先生を見ておると、もう可哀想で堪らん事がある。いわゆる救いのない、ひろこ先生を見る訳なんですね。もう修行が術なくなって来る訳。もうそれに引き換え私共は、もうほんとにおかげを頂いて、ここで修行させて頂いておると云う事が、もう楽しゅうて楽しゅうて堪らんとこう。
私はそういう、私はあの、おかげでなからないかん。ならひろこ先生が救われてないと言う訳じゃないのですけれどもです、時々そう言う様な、例えば寂しい面に触れる時に人から可哀想と思われる様な事では、もうその人が救われとらん証拠です。どんなにですねどんな難儀の中にあってもです、もう本当にあげな信心はでけん、とてももうあの人がこの修行しておられる姿と言う物が。
もう相手になんか生き生きしたものを、与えれる様な私はその修行であって、初めてその人が救われた信心をしておると言う事が、言えるというのじゃなかろうかとこう思う。金光様の信心を頂いておるから皆、救われておる、救いって言う事じゃない。いわゆる救われていない、救いのない、言わば信心。ただ何とはなしにです、駆け込んで行けれる。いざと言うとには親先生と言うて行けれる。
だからやめきらんと言った様な、今までの信心を続けておるとするならば、それは救いのない信心だと私は思うです。成程人の目からは、おかげを頂いていない。まだ財産の金銭の上にも、家庭的な問題の上にも様々な難儀はこう山積みであるけれどもです、その例えば難儀を抱えながらのです、ほんとに心に、救いを感じておる生き方。そういう私はこの生き方をしなければならない。ほんとですよ。
まあほんとに例えばもう一生懸命、朝から晩までなら、修行しておってもです、それがせにゃならんけんでしておる、って言うのだったら、こげな救いのない信心、こげな救いのない修行はないのですよ。もうそれは修行じゃないです、苦労です。その難儀と言う物から逃れずに、その難儀に取り組んで、しかもそれ生き生きとして、痛いなら痛いで、やれ痛や今みかげをと言う様な心が生まれて来る。それを合掌して元気な事で受けていく。そういう原動力を力を、信心によって頂いていっておる人達の姿こそが。
救われておる人の姿であると私は思うんです。あぁ何時までたったらおかげを頂けるじゃろうか、と言う様な信心ねぇ是では私は救われた、いわゆる救いのない信心神様が救おうとなさっても救い様のない心の状態だと思うんですよねぇ。所が私はその救いのない信心をしておる人が沢山おろうと思うね。ならこの合楽にお引き寄せを頂いておる人の中にでも、救いのない信心をしておる人がただ惰性で信心をしておる。
有難うもなからなければ、生き生きした者もないね。とするならそれは救いがないね。そこで私はその救いを求めてね、その救いを見い出させて貰う、信心とはどう言う事かと言うとですね、確かに私が思うのにですね。神様のお心を、分からせて貰うと言う事。神様の心を悟らせて貰うと言う事ね。そこから私はねどういう難儀の中にあっても有り難いと。私共の信心の過去を、振り返ってみましてから。
ほんとに「求めての修行もさせて貰ました。又は自然が求められる修行もさせて頂きました。」様々な難儀な中にです、けれども私の場合、何時の場合でも救いがあったと。何時の場合でも私の心の中に、神恩に対する所に、言うならば、神恩に感泣しての、信心じゃったと思う。どういうもう本当に、もう這いも立ても、出来んごたるひどい場合に合う様な、場合であってもです。
神様がこげんしてきとうて下さる、こうだったですもんね。神様がこげんして力をつけて下さるねぇ。そこに私信心の救いがあると、そこに助かりが繋がっておった。信心させて貰よるとにどうしてこげな苦労が続くじゃろうか、どうしてこげな、苦労が続くじゃろいうかと言うところには、もうあなたの信心には救いがないと言う事。そういう心の状態ではまた神様も助け様も、おありにならないであろうと言う事。
只信心が続けられておる。もう何年信心致しておりますというのでは、で言わば救われた信心とは言われない。救いのない信心。例えば今日私の滝の白糸、というお芝居を見せて頂いて、あまりにも、救いのないその、ラストシーンを、がですたい、何とかあそこに救いその、お芝居であってもです、例えよし死んでいってもです、ほんとに満足して、微笑んで死んで言ったと言った様な。
そのラストシーン出来なかったもんだろうかと私思うたねぇ。是じゃ死んでも死にきれない、今まで、死ぬると言う事はです楽しみにしておった。その楽しみも無くなった時に、もう死刑は目の前に迫っておるそれに是では死なれない、そこに発狂してそして自分で舌噛み切んで、噛み切って死んでしまう。もうほんとに見るも聞くも哀れな話しなのである。けれども芝居だけではない、それにも同じ様な、私信心をしておる人がおるじゃなかろうか。それでは助からんばい。
それじゃ救いようがないじゃないかと、と言う様な神様の本当の願いと言うか、神様の思いを分からん所にです、あぁ何時までたったらおかげ頂けるじゃろうかと。どうして信心させて貰っておるのにこんな事が続くじゃろうかというのであったら、もうそれは救い様もなからなければ、救いのある信心でも、ない訳なんです。どうぞ一つどの様な場合でも、救われておる私。そういう信心をさせて頂きたいと思いますね、
どうぞ。